2020年08月06日

第352号「たとえ神風が吹かぬとも・・・(3)」

「文永の役」において日本を攻め落とせなかったモンゴル国のフビライ皇帝。たった一度の戦いで日本を諦めることは当然しなかった。

 

 小国への侵攻が失敗に終わったことで、フビライのプライドはズタズタに傷つけられたと想像できる。次の戦いでは文永の役の何倍もの兵力を携え、日本を完膚無きまでに叩きのめしてやる、がフビライの目標となった。

 

 日本にとっても、フビライが復讐するであろうことは容易に予期できることだった。北条時宗は、世界最強のモンゴル軍と再び日本は戦うべきか、それとも恭順すべきか、の結論を出せずにいた。そこで、時宗は敬愛する蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)和尚(日本に禅宗を伝えた南宋の僧侶)に悩みを打ち明けた。蘭渓道隆は、時宗に次のように語った。

 

「宋は蒙古(モンゴル)を軽く見て、だらだらと交渉している間に侵略され、国をなくしてしまいました。あなたは、あれこれ考えずに正しいと思うことをやり通しなさい」

 

 さて、フビライは文永の役の翌年、日本に降伏を迫る書簡を届けた。内容はこんな感じだ。

 

「文永の役は、蒙古の恐ろしさを知らしめるのが第一の目的であり、早々に撤退したが、今度はもっと多くの軍隊で攻める。恭順するなら今のうちである」

 

 覚悟を決した時宗は、書簡を読んでも一欠片(ひとかけら)の躊躇すら生まれなかった。彼はモンゴルからの使者五名全員を処刑し、内外に戦う決意を明確に示した。北条時宗は博多に強固な防塁を築き、来るべき開戦に備えた。

 

 一二八一年(弘安四年)、フビライは、范文虎(はんぶんこ)を総大将とする大軍を博多に差し向けた。今回の軍勢は、合計十四万人。文永の役の四倍以上の兵ということになる。

 

 対する日本の兵は六万五千人。武士だけの兵数なら一万二千人しかいなかった。

 

 兵力の差は火を見るより明らかだった。

 

posted by 北町ことら at 14:34| Comment(0) | 日記

2020年07月28日

第351号「たとえ神風が吹かぬとも・・・(2)」

一二七四年十月(文永十一年)。

 

 モンゴル軍は支那兵六千、高麗兵二万四千、三万を数える大軍団を組織し、九百艘の船に分乗して、突如、対馬に来襲、続いて壱岐島に上陸した。島の人口は数百人程度で、当然武器もない。そこに完全武装した兵、三万が襲いかかった。島は全滅した。

 

 次にモンゴルの軍船は博多湾に向かい、上陸を開始した。迎え撃つ日本の兵は、太宰府の防人と鎌倉より駆けつけた武士である。

 

 モンゴル軍の奴隷兵士である支那、高麗の兵は、日本の兵目掛けて次々と矢を放った。しかし、弓矢の訓練をしていないことに加え、矢が粗悪品だったため思った場所へ飛んでいかない。それどころか、自軍の兵に突き刺さる矢が後を絶たない状態だった。

 

 逆に、上陸した支那、高麗の連合軍に向けた日本兵の矢は正確無比で、モンゴル軍は次々と前線を指揮する将官を失い大混乱に陥った。

 

 日本の武士達は、高麗船目掛けて毎晩のように夜襲をおこなった。作りの貧弱な高麗船で無理な海洋航海をした軍船は、槍で突いたり、斧で舷側に穴を開けるだけで面白いように浸水し、乗員達はパニックになった。そこへ武士達が火を放つ。船はあっという間に燃えたという。

 

 残った軍船は直ちに沖合へ引き上げ、翌日の朝には博多湾を埋め尽くしていた支那・高麗連合の軍船が、一艘もいなくなっていたようである。

 

 奇跡的に神風が吹き、蒙古軍が撤退したと教科書で学んだ「文永の役」は、近年の研究により、上記のような戦いが繰り広げられた事実が明らかになった。

「文永の役」に関して、高麗の歴史書である「東国通鑑」には、夜半に大風雨が襲い、多くの船が海岸の崖や岩に当たって傷んだと書かれている。

 

 しかし、想像もつかぬ激しい逆襲を日本軍から受け、逃げ帰った支那・高麗連合軍が自らの保身のため、モンゴル国へ捏造した報告書を作ったことを示す文献が発見された。

 

posted by 北町ことら at 14:38| Comment(0) | 日記

2020年07月21日

第350号「たとえ神風が吹かぬとも・・・(1)」

「天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。昔から国境が接している隣国同士は、たとえ小国であっても貿易や人の往き来等、互いに仲良くすることに努めてきた。

 

 大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきた。はるか遠方の国々も大蒙古帝国の代々の皇帝を恐れ敬い、家来になっている。私(フビライ)が皇帝になってからも、高麗は我々に降伏して家来の国となった。私と高麗王は、父子の関係のようになり喜ばしいこととなった。高麗は私の東の領土である。

 

 日本は、昔から高麗と親交がある。支那とも貿易をしていた。にもかかわらず、私に一通の手紙を出すでもなく、国交を持とうとしない。日本は、我々大蒙古帝国のことを知らないのか?だとすれば困ったことなので、特に使いを送る。この国書を通じて私の気持ちを伝える。

 

 これから日本と大蒙古国とは、国交を持ち、仲良くしていこうではないか。我々は全ての国を一つの家と考えている。日本も我々を父と思うことである。このことが分からなければ、大蒙古帝国は、日本に軍を送ることになる。しかし、それは私の好むところではない。日本国王はこの気持ちを良く考えて、返事をしてほしい」(一二六六年・八月)

 

「義経伝説」において、頼朝の追っ手を逃れた義経が中国大陸に渡り英雄になったという話がある。英雄の名は、チンギス・ハーン。モンゴル帝国の初代皇帝である。モンゴル帝国はその後、世界の大部分を征服していき、いよいよ皇帝フビライ・ハンの時代に極東の小国・日本を支配すべく使者を送ってきた。

 

 その時の書簡の内容が冒頭の文章である。日本は鎌倉時代であり、幕府は北条時宗(ほうじょう ときむね)が執権を握ったばかりだった。時宗、十八歳の時である。彼はこの書状を読んだ後怒り心頭に発し、これを破り捨てたと言われている。無論、書状への返信はしなかった。

 

 日本側の対応に激怒したフビライは、恐れを知らぬ生意気な小国を殲滅すべく属国である高麗に対して、直ちに一千隻の軍船を造るように命令した。

 

posted by 北町ことら at 16:52| Comment(0) | 日記