ジャッキー・ロビンソンは自分を守ってくれる白人球団社長のリッキーや家族、自分に続くであろう同胞の黒人(有色人)選手のため、脅しや殺害予告にも耐え続けた。
ロビンソンが入団した年のロイヤルズはリーグ優勝を果たし、球団史上最多の八十万人の観客も動員することができた。
この時、ロビンソンとのプレーを嫌がる白人チームメイトは皆無だった。差別を続けた白人の観客も、結局はロビンソンのパワーとスピードを兼ね備えた野球に期待していたのだった。
昭和二十二年、ブルックリン・ドジャースはジャッキー・ロビンソンをメジャーリーグに昇格させることを発表した。
四月十五日。米国野球の歴史を変える開幕戦。球場には二万七千人余りの観客が押し寄せた。その半数以上の一万四千人がロビンソン見たさに集まった黒人の観客だったという。
時計の針の少しだけ戻す。開幕戦を控えた春の球団のオーナー会議ではドジャースを除く全ての球団がロビンソンがメジャーリーグでプレイすることに反対した。
フィラデルフィア・フィリーズはロビンソンを出場させるならドジャース戦を拒否すると通告した。
セントルイス・カージナルスはスター選手達が中心となってストライキを扇動した。
これに対してメジャーリーグのコミッショナーは、黒人選手を保持するドジャース球団を支持し、リーグの会長はドジャース戦を拒否したらいかなる選手も出場停止処分を課すと発表した。
ブルックリン・ドジャース監督のレオ・ドローチャーは開幕前
に語った。
「自分は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと構わない。自分はこのチームの監督である。優秀な選手であれば使う。もし自分に反対する者がいたら、チームを出て行ってほしい」
ロビンソンを取り巻く世間の目は、彼がマイナーリーグで大活躍したことによって確実に変化していった。勿論それはロビンソンにとって嬉しい変化であった。